サロンde夜間学校が主催しているイベント式応接室の授業17回目は初めてのフィールドワークです。
たまには教室を飛び出して一緒に実地を歩いてみませんか?
初めてのチャレンジに対してゲン担ぎ……ともちょっと違いますが、民間で語り継がれている「七福神巡り」をしながら、なぜこの7体が信仰の対象となったのかなど調べてみたいと思います。
巡る場所:下谷七福神 元三島神社ー法昌寺ー英信寺ー入谷鬼子母神ー弁天院ー飛不動正宝院ー寿永寺
スタート場所:JR鶯谷
散策所用時間:1時間〜2時間
散策後は三ノ輪まで抜けてお茶タイム予定(ジョイフル三の輪内 月光)
授業の概要
■七福神成立の流れについて■
室町時代頃から福神信仰が見られる。
七福神の中でも中心的な存在である大黒と恵比寿は、室町時代から二神を並べて祀ることが流行していた。安土桃山時代以降、二神を描く図像が多数残っている。また中世成立と考えられる狂言『福の神』に出てくる福神は大黒あるいは恵比寿と考えられる。
『看聞御記』応永27(1420)年1月15日
村の人間が布袋・大黒・夷・毘沙門などに仮装して風流踊りをした、と記述。
『梅津長者物語』(江戸時代初期成立)
恵比寿三郎(エビス神は三郎神と混同されていた)は梅津の里に住む貧しい夫婦に感動して、稲荷(本地仏は弁財天と書いてある)と毘沙門の助けを借りて、貧乏神を追い出す。恵比寿・稲荷・毘沙門と宴会を開いているところに今度は大黒天が来る。次に寿老人・福禄寿が来て、最後に布袋が来る。<七福神がすべて揃っている>
なお、七福神のメンバーが定着するのにはしばらく時間がかかる。
『日本七福神伝』寛文2(1662)年版のものが残る。
「吉祥、弁財、多門、大黒、四天、布袋和尚、南極老人、及吾国の蛭子神を以て七福神と称し、これを祭る」とある。
吉祥⇒▲吉祥天。毘沙門天の妻とされる。
弁財⇒●弁財天
多門⇒●多聞天、毘沙門天のこと。
大黒⇒●大黒天
四天⇒▲仏教の四天王、持国天・増長天・広目天・多聞天のこと。
布袋和尚⇒●布袋
南極老人⇒●寿老人あるいは福禄寿のこと。
蛭子⇒●恵比寿のこと。
現在の七福神に含まれない吉祥天がおり、寿老人と福禄寿が実質一人になっている。また四天王まで含まれていて、数が七で収まっていない。
『合類大節用集』元禄11(1698)年
「七福神、弁財天、毘沙門天、大黒天、恵比酒、福禄寿、布袋和尚、猩々」
こういった背景がありつつ、現在の七福神信仰自体は江戸時代中期頃に完成したと思われる。
鈴木春信『七福神宝船』宝暦11〜12(1761〜62)年頃の成立。七福神が宝船に乗っている。
■なぜ「七」福神なのか■
仏教語に七福という言葉があり、また日本では奇数のほうが据わりがいいとする観念が強い(三大◯◯ など)。神に異動があることなどから考えても、偶発的に神が七人集まったというよりは先に七福神という概念があって、神をあてはめたと考えるべきだろう。
■七福神の諸尊についての解説■
●全体の特徴
仏教の天部(大黒天・毘沙門天・弁財天)、記紀神話に出てこない神(エビス)、道教的な神(福禄寿・寿老人)、仏教の神格化された高僧(布袋)といったラインナップで、如来部や菩薩部の仏、記紀神話に出てくる著名な神といった、メジャーな神仏から全体的に微妙にずれている。
信仰としてはおおまかに言って福徳の神が多い。福禄寿と寿老人が寿命に関する神格。
●大黒天
元はヒンドゥー教の神マハーカーラを翻訳した名称。破壊神であるシヴァの化身ともされる。そのためシヴァが仏教化した大自在天(伊舎那天)などとも同体とされる。もともと勇猛な戦闘神であったが、一方でインドの寺院では厨房や食物庫の守護神としても崇拝され、この要素が中国、日本に伝わった。
日本ではまず天台宗に受容され、台所の守護神として扱われた。室町時代には大黒天信仰が隆盛し、比叡山の拡台所で大黒天が祀られ、これが京都の町衆に伝わり、広まったとされる。本来は大黒天の性格上、武装形のもののみだったが、平安時代後期には平服形(現在の大黒天の形式のもの)が作られている。室町時代には大国主命と習合していったが、図像自体は習合が進む前から現在に近いバージョンがあったと考えていい(と思います、多分……)。大国主と習合したことなどから福徳の神というイメージが強くなったか。
●恵比寿
平安時代、広田神社末社(現在の西宮神社の前身とされる)に「夷 毘沙門」と表記があり、エビス信仰が確認される。また、平安時代末期にはエビスを市場の神として祀った記述がみられ、鎌倉時代にも鶴岡八幡宮境内の市神として祀った。このことから中世には商売繁盛の神としての性格があったことがわかる。その後、南北朝成立の安居院流の『神道集』などでは記紀神話の蛭子(イザナギ・イザナミの子供で船に載せて流された)と習合し、蛭子は竜宮を経由し、住吉に流れ着き、西宮でエビスとして祀られることになったとされた。このことから蛭子もエビスと呼ぶことになった。また大国主の子供である事代主をエビスとする信仰もあり、この場合大黒が大国主と習合しているため、大黒と恵比寿が親子ということになる。
●毘沙門天
古代インドの神ヴァイシュラヴァナ。『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』などではクベーラという神の別名とされるが、このクベーラは財産福徳の神である。この神が仏教に入り、毘沙門天、意味から漢字を当てて多聞天とも呼ばれるようになった。本来は四天王として北方守護の神格だったが独立して信仰されるようにもなり、その場合は毘沙門天と書かれることが多い。なお、吉祥天を妻あるいは妹とする説があり、七福神に吉祥天が含まれて書かれている資料もある。
●弁才天
もともとインドの川の神サラスヴァティーが仏教にとりいれられたもの。日本に入った時に海や川辺に祀られる市杵島姫命と混同された。また鎌倉など洞窟で信仰されることもあるが、これも資料の記述に書いてあるものに由来する。
インドの時点で、英知の神・音楽の神といった設定が加わり、琵琶も弾いている。また弁才天像の中には武器を持っているものがあるが、戦闘神としてもインドで信仰されたことと関係があるかもしれない。日本には奈良時代に信仰が確認される。鎌倉時代になると宇賀神と習合し、宇賀弁才天という異形の図像が生まれる。この宇賀神は穀物神であったところから鎌倉時代には福徳の神とされ、そのためか弁才天が財産神と扱われるようになり、弁財天と書かれるようにもなる。七福神には財産神の要素があるために入ったのではないか。
●福禄寿・寿老人(同体異名)
寿老人
福禄寿
もともと中国には寿命を司る星としての南極老人星(竜骨座のアルファ星、カノープス)の信仰が紀元前からあり、寿星・寿老人などとも呼ばれた。これが宋代になると擬人化された神格として表現されるケースが生まれてくる。この姿は頭部が長く、白いヒゲの生えたものであった(現在の日本での福禄寿の図像)。
明代に入ると、福星・禄星・寿星を描いた三星図が民間信仰の中で流行した。このうち、寿星は寿老人のことである。この三星図の中には寿星だけを描いたバージョンもあった。このバージョンが日本に入り、福禄寿という神格として誤って伝わった可能性が高い。
一方で寿老人という名前も存在はしていたため、こちらにも図像が必要となった。その結果、現在の日本で伝わっているような図像があてられたと考えられる。
●布袋
唐末の僧侶。流浪の生活をし、大きな布の袋を持っていたとされる伝説的な人物。没後、そう時間を置かず、布袋図像が描かれはじめたという。信仰上は弥勒の化身とされ、主に禅宗中心に信仰された。鎌倉時代に禅画の題材として布袋が受容され、日本でも主に禅宗で信仰された。肥満体や布袋から福徳を現す神格とされたと考えられる。
■森田季節さんプロフィール■
08 年、大学院で日本史の勉強中に小説でデビュー。近著に『封神演戯』(集英社DX文庫)。
寺社仏閣めぐりが趣味で、「森田電鉄」で検索してブログを見てもら えればだいたいご理解いただけるかと……。
山川出版社の『東京都の歴史散歩』シリーズに記載されてる寺社はほぼすべて行った。
趣味は相撲観戦、ラーメン食 べ歩き、ヴィジュアル系CD鑑賞。
コミュニケーションって言われるとハードルが高いことでも、授業って思えばこんなだったかも?と思われるかもしれません。
年末の忙しい時期ではありますが、どうぞお誘い合わせの上遊びにいらして下さいね。