詳細 ▲前回のお話 デリダさんが産まれる前からあった問い「私とは誰なのか?」をめぐってお話が始まります。(p.103)ただこの「私」にこれまでの哲学者は「動物たち」を含めてこなかったとデリダさんはいいます。動物たちは「模倣する、理解せずに、あるいは思考せずに、そしてとりわけ、たずねられた問いに応答せずに。動物たちは答えない」とアリストテレスからラカンまでそのようにみなしてきたと(p.103) 猫は答えない、なぜならいつでも同じことを答えるから。だからデカルトは言います「あたかも動物は言葉を剥奪されている」。ここで重要になるのは「交換あるいは問い/答えの対」ということになります。(p.104)これがなければ「応答」したとはみなされない。 ではわれわれは「私とは誰なのか」という問いに「応答」できるのでしょうか? 複雑な刺激システムへの「反応」とまったき純粋さで「応答」を区別できるのでしょうか?我々もまた「反応」しているだけではないのか。(p.105) それを考える上で、まず人間において嗅覚と匂いの感覚が問われなければならないだろうとデリダさんは延べます。(p.108)そしてなぜ感受性のこのゾーンが哲学および芸術において、これほど無視され副次化されてきたのかを考えなくてはならないと。 例えば猫に裸を見られたその瞬間に、性器が剥き出しのところを見られないようにする欲望が働くが、ここに猫以外の第三者として女がいればその欲望はいっそう激烈になる。その時「私は」あえておのれを男として措定する。(p.113)生殖が性的対形成を行い、その場面において一匹の猫が一匹の猫をそれと認め「猫は猫だ」と知るような鏡像的経験がありうる。(p.116)おのれの種の他の生けるものを、おのれに近きもの、おのれの同類なるものとして同定するのは、本来的な意味で性的なものがあるところで起こるためである(p.115)(何に欲望するかによって「◯◯に欲望する私」というように自己が同定される/形成され、◯◯に欲望する以上私と◯◯は近きものとして同定しうるということなのでしょうか?) (以下随時更新) ▲前々回のお話 ある日ある一匹の子猫に自分の裸を見られてしまったジャック・デリダさん (p.18)。そしてこの「ある猫に自分が裸で見られているのを見るよりも前に」裸で見られている受動性のうちにしか裸はないとか言い出すデリダさん (p.32)はベンサムの「問題は動物が話すことができるかどうかではない、彼らが苦しむことができるかどうかなのだ」というすんごく有名な問いを思い出 し、苦しむという受動でしかないことが「できる」っていうのは奇妙だよね、「不可能なものの可能性」(p.59)だよねとかかっこつけちゃいますが、そこ はさすがデリダさん、けれどこの回答は「否認不可能」じゃないかとおっしゃいます。 「その通り、あのものたちは苦しむ、あのものたちのために、あのものた ちとともに苦しむ私たちと同様に」(p.60)。そしてこの「否認不可能性」の前では、「他の一切の問いに先行するこの問いの前では、問題構成の土壌と土 台が変わる」(p.60)のだともデリダさんは述べるのです。 デリダさんが問題にするのは人間のナイーブな確信です、〈動物〉にはできないことが〈人間〉にはできるのだ!という。 「多大な数のいけるものたちを、彼らが大文字の単数定冠詞付きで〈動物〉と言う、この唯一の概念のもとに囲い込むために、このものたちはこの名をみずからに与 えたのである。そして、それを、この名をみずからに与えたのは、同時に彼ら自身に、語への、名への、動詞への、属詞への、語からなる言語への権利を、自分 たちの専用に取って置くために授けることによってだったのだ。」(p.66) 人間は言葉が使えるしーそっから生まれるいろんな権利が人間にはあるしー〈動物〉とはやっぱ違うよねーというナイーブな確信をデリダさんは打ち砕こうとします。どうやってか?デリダさんはこんな概念を持ってきます「自伝的動物」 「自伝」は「私は―…でぇ…でもって…だったんですよー」という「私」語りである以上「私」という語と「動物」という語のあいだには「あらゆる種類の意味深い交差がある」んだとデリダさんは言います(p.94)そしてなんかこっから難しそうな話になります。 「『私 は』とは誰でもよい誰かである、『私は』誰でもよい誰かである(なんで二回言うの?)誰でもよい誰かは、自己を、おのれ自身の単独性を指向するために、 『私は』と言えなくてはならない。『私は』という、あるいは『私は』としておのれを把握ないし措定する任意の誰かは、動物的な生けるものである。」 (p.94) 要するに、この「私」が他の「私」(要は他人)と異なるためには『私は』と言えなくてはならないよんということです が、デリダさんは、その「私」性を保証するのは〈自己の生のエクリチュールおよび署名〉への適性が認められる場所でなんだと、だからこれらの痕跡を言葉に よる言語活動に変形する能力がないとされた〈動物〉においては「私」性を保証するのが困難になっちゃってるのだと指摘します。〈動物〉がぺたぺたぺたぺ たーっとつけている(「私の」)足跡は他の〈動物〉のそれと同じだから、その足跡を人間は「私なるもの」の「自伝」とは思わないわけです。 けれど〈動物〉の側から見た時、「人間」が書いているこの文字は動物の足跡と同じものにみえるんじゃないかとデリダさんは言います。確かに「人間」が使う この文字は、「人間」が〈動物〉の足跡とみる時と同じように、彼らから見ればどれも同じ痕跡にしか見えないだろうと。(だから逆に〈動物〉の側も文字を、 言語を有しているのかもしれない。「人間」が足跡としか見ないだけで) そして「人間」が「私」の表現だと思っている「自伝」、つま り文字のつらなりとその最後に記される署名が、単に痕跡としてしか見られない〈動物〉の地平から眺めた時、何が「私」を保証するのか?そもそも「私」とは誰か?という疑問が浮かびます。その問いを考えなくてはならないわけです。 ▲概要 現代思想をはじめとして各分野において先端のテーマとなっている「ポスト・ヒューマン」ないし「動物」。 「われわれ(人間)にとってどこまでが「他者」なのか?」 それは 「私たちが(人間)に固有であると考えてきたものは、本当に(人間)にのみ当てはまるものなのか?」 という問題提起でもあり 「自然」に抗うことができる能力を有するものが人間(コジェーヴ) 賃〈労働〉でもなく、〈物〉を残す〈仕事〉でもなく、人間たちの議論等の〈活動〉が人間の〈条件〉(アーレント)
また 東浩紀の『一般意志2.0』が公共性を指向せず(政治に関心を持たず)個々がばらばらに意見を述べることが重要 『動物化するポストモダン』が公共性をもたない「オタク」に注目し、そこでは「自然」に抗うというコジェーヴ的「人間」観は消滅し アーレント的な人間性(公共的な社交性)はデーターベース水準(新たな「萌え」のリソースの生産による交流)で担われる(そして「意味」への渇望は、タコツボ化した「小さな物語」の世界の中で「萌え要素」の反復によって満たされる) という「動物性」と「人間性」が乖離し、従来の西洋的な「人間」観が無効化したという分析を提示していることからもわかるように 「公共性」(社会性)の問題と「動物」の問題は深く関連しています。
変わるかもしれません。(「情動」とか「感情」の問題も大事だし…) ▲参加方法 以下のいずれかの方法でお願いいたします。 ・Twiplaで参加表明する(下の「参加する」からお願いいたします。) ・@kashimanneoxにリプライする ▲日時 2015年11月21日(土)13時~16時30分(予定) ▲場所 パルル/parlwr 名古屋市中区新栄2丁目2-19 場所の利用料としてひとりあたり500円かかります。ご承知のうえご参加をお願いいたします。場所 パルル/parlwr 名古屋市中区新栄2丁目2-19 道順を調べる 参加者 (3人) 興味あり (0人) 不参加 (0人)
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