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20151012[月] 13:00

どなたでも初参加歓迎途中参加OK
【10月12日13時~】ジャック・デリダ『動物を追う、ゆえに私は(動物)である』読書会第2回「Ⅱ」

KashiMax

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詳細

▲前回までのお話

ある日ある一匹の子猫に自分の裸を見られてしまったジャック・デリダさん(p.18)。そしてこの「ある猫に自分が裸で見られているのを見るよりも前に」裸で見られている受動性のうちにしか裸はないとか言い出すデリダさん(p.32)はベンサムの「問題は動物が話すことができるかどうかではない、彼らが苦しむことができるかどうかなのだ」というすんごく有名な問いを思い出し、苦しむという受動でしかないことが「できる」っていうのは奇妙だよね、「不可能なものの可能性」(p.59)だよねとかかっこつけちゃいますが、そこはさすがデリダさん、けれどこの回答は「否認不可能」じゃないかとおっしゃいます。「その通り、あのものたちは苦しむ、あのものたちのために、あのものたちとともに苦しむ私たちと同様に」(p.60)。そしてこの「否認不可能性」の前では、「他の一切の問いに先行するこの問いの前では、問題構成の土壌と土台が変わる」(p.60)のだともデリダさんは述べるのです。

デリダさんが問題にするのは人間のナイーブな確信です、〈動物〉にはできないことが〈人間〉にはできるのだ!という。


「多大な数のいけるものたちを、彼らが大文字の単数定冠詞付きで〈動物〉と言う、この唯一の概念のもとに囲い込むために、このものたちはこの名をみずからに与えたのである。そして、それを、この名をみずからに与えたのは、同時に彼ら自身に、語への、名への、動詞への、属詞への、語からなる言語への権利を、自分たちの専用に取って置くために授けることによってだったのだ。」(p.66)


人間は言葉が使えるしーそっから生まれるいろんな権利が人間にはあるしー〈動物〉とはやっぱ違うよねーというナイーブな確信をデリダさんは打ち砕こうとします。どうやってか?デリダさんはこんな概念を持ってきます「自伝的動物」

「自伝」は「私は―…でぇ…でもって…だったんですよー」という「私」語りである以上「私」という語と「動物」という語のあいだには「あらゆる種類の意味深い交差がある」んだとデリダさんは言います(p.94)そしてなんかこっから難しそうな話になります。


「『私は』とは誰でもよい誰かである、『私は』誰でもよい誰かである(なんで二回言うの?)誰でもよい誰かは、自己を、おのれ自身の単独性を指向するために、『私は』と言えなくてはならない。『私は』という、あるいは『私は』としておのれを把握ないし措定する任意の誰かは、動物的な生けるものである。」(p.94)


要するに、この「私」が他の「私」(要は他人)と異なるためには『私は』と言えなくてはならないよんということですが、デリダさんは、その「私」性を保証するのは〈自己の生のエクリチュールおよび署名〉への適性が認められる場所でなんだと、だからこれらの痕跡を言葉による言語活動に変形する能力がないとされた〈動物〉においては「私」性を保証するのが困難になっちゃってるのだと指摘します。〈動物〉がぺたぺたぺたぺたーっとつけている(「私の」)足跡は他の〈動物〉のそれと同じだから、その足跡を人間は「私なるもの」の「自伝」とは思わないわけです。


け、れ、ど〈動物〉の側から見た時、「人間」が書いているこの文字は動物の足跡と同じものにみえるんじゃないかとデリダさんは言います。確かに「人間」が使うこの文字は、「人間」が〈動物〉の足跡とみる時と同じように、彼らから見ればどれも同じ痕跡にしか見えないだろうと。(だから逆に〈動物〉の側も文字を、言語を有しているのかもしれない。「人間」が足跡としか見ないだけで)


そして「人間」が「私」の表現だと思っている「自伝」、つまり文字のつらなりとその最後に記される署名が、単に痕跡としてしか見られない〈動物〉の地平から眺めた時、何が「私」を保証するのか?そもそも「私」とは誰か?という疑問が浮かびます。「私とは誰か?」その答えがもしかすると、今回の読書会でわかるのかもしれません。書いてなくても僕のせいではありません。


▲概要
名古屋クラスタさんと共同開催となって一回目はジャック・デリダ『動物を追う、ゆえに私は(動物)である』を取り上げます。
今回は「Ⅱ」(動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある(続く)の続き)を扱います。


現代思想をはじめとして各分野において先端のテーマとなっている「ポスト・ヒューマン」ないし「動物」。
そしてその中心の一角にはジャック・デリダがいます。


「われわれ(人間)にとってどこまでが「他者」なのか?」

それは

「私たちが(人間)に固有であると考えてきたものは、本当に(人間)にのみ当てはまるものなのか?」

という問題提起でもあり


「自然」に抗うことができる能力を有するものが人間(コジェーヴ)


賃〈労働〉でもなく、〈物〉を残す〈仕事〉でもなく、人間たちの議論等の〈活動〉が人間の〈条件〉(アーレント)


と考えられていた従来の「西洋的」人間観に再考を促すものでもあります。


また

東浩紀の『一般意志2.0』が公共性を指向せず(政治に関心を持たず)個々がばらばらに意見を述べることが重要
(公共性を指向すると意見が単一化し、むしろ危険)というルソー解釈を提示し


『動物化するポストモダン』が公共性をもたない「オタク」に注目し、そこでは「自然」に抗うというコジェーヴ的「人間」観は消滅し

アーレント的な人間性(公共的な社交性)はデーターベース水準(新たな「萌え」のリソースの生産による交流)で担われる(そして「意味」への渇望は、タコツボ化した「小さな物語」の世界の中で「萌え要素」の反復によって満たされる)


という「動物性」と「人間性」が乖離し、従来の西洋的な「人間」観が無効化したという分析を提示していることからもわかるように

「公共性」(社会性)の問題と「動物」の問題は深く関連しています。


読書会においては従来の「人間観」と「公共性」について再考する目的で「動物」について考えていきたいと思っております。


変わるかもしれません。(「情動」とか「感情」の問題も大事だし…)


▲参加方法

以下のいずれかの方法でお願いいたします。
・Twiplaで参加表明する(下の「参加する」からお願いいたします。)
・@kashimanneoxにリプライする

▲日時
2015年10月12日13時~16時30分(予定)

▲場所
パルル/parlwr 名古屋市中区新栄2丁目2-19
場所の利用料としてひとりあたり500円かかります。ご承知のうえご参加をお願いいたします。

場所
パルル/parlwr 名古屋市中区新栄2丁目2-19
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      コメント
      1. @kashimanneox 参加します!
        yusuke nino 3318日前 
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